「女性」は不可視の人々のためのカテゴリーになりうるか(2021)
歴史的に、女性はつねに男性の次におかれてきた。それは社会でも、家庭でも、そして同性愛女性やトランス女性といったセクシャルマイノリティをめぐる言説においても同じである。テレサ・ド・ラウレティスは、クィア理論においてその点を指摘した。
白人ゲイの正史と社会学の言説は、女性に関してはその補足とのみみなして考察を加えただけだったが、しかもそこには、女の社会的・性的特殊性への理解はほとんど、あるいは全く見られず、白人レズビアニズムの言説は白人ゲイからは切り離されて論じられてきた。[1]
つまり異性愛女性を前提とする「フェミニズム」、そして“と”という接続詞によって様々な差異を覆い隠し、結果的に同性愛男性を前提とする「レズビアン/ゲイスタディーズ」のいずれからも、同性愛女性は排除されてきたということである。そして現在、世界の半数を占めるはずの女性たちは「多様性」の枠組みに絡め取られ、またネット上には過激なフェミニストたち、つまり女性を攻撃する女性も登場している。本稿では、ある制度や言説から「誰が排除されているのか」を思考してきたクィア理論を用いて、二つのテクストから、現代において不可視とされている人々の問題について考えてみたい。
そこに現れることのできない「女性」
韓国にルーツを持つノンバイナリーのアーティスト、ヨハンナ・ヘドヴァJohanna Hedvaは、2016年に「Sick Woman Theory」と題した論考を発表した。自身も子宮内膜症のほかに双極性障害やパニック障害などの慢性疾患をもつヘドヴァは、「病」と「女性」のふたつを似たものとして定義し、それぞれをもう一度取り返す理論の構築を試みている。
へドヴァは、Black Lives Matterのような活動に参加することができない病気の人々のために論考を書き始めたという。ハンナ・アレントが定義したように、「政治的である」と見なされるために公共の場に現れることが必要ならば、病気や障害、そしてそのケアのために路上に出てこられない人々は「政治的ではない」のか。そうではなく、まず「病」というものの定義こそを考える必要がある、とヘドヴァは論じる。そして、ほとんどの医学文献が白人中流階級の人々を想定したものであるというアン・クヴェトコヴィチの言葉を引きながら、その特権による快適さと真逆の病という状態は、しばしば「謎」とされてきたと指摘する。現代の資本主義社会においては、「白人至上主義」「新自由主義」「アメリカ」[2]によって定義された健康wellnessが先にあり、それに対して病sickを抱える人々は逸脱者であると見なされているのだ。
またへドヴァは、あえて「女性woman」という言葉を使う理由を、以下のように説明している。
「女性」というアイデンティティは、多くの人(特に有色人種の女性や、トランス/ノンバイナリー/ジェンダーフルイドの人々)を消し去り、排除してきたが、私がこの言葉を使うことにしたのは、この言葉がまだ「ケアされていない」「二次的な」「抑圧された」「〜ではない」「〜以外の」人々を表しているからである。(引用者訳)[3]
ここで注目したいのは、ヘドヴァが「病」や「女性」という言葉を等しくポジティブに奪還しようとしているわけではないということだ。病と呼ばれるものを生み出した差別や排除の構造が、女性というアイデンティティにも見られる。しかし、「女性」がそのなかから何を排除してきたかを反省しながら使用することは可能ではないか。そしてヘドヴァは論考の最後に、「Sick Woman is…」として様々な不可視の存在を高らかに叫ぶ。それはパニック発作に苦しむトランス女性であり、10代の頃にレイプされたことを恥じる50歳のゲイ男性であり、虐待を受ける子どもであり、世界が「治療」しようとする自閉症の人々のことである[4]。こうした提案は、セックスこそがジェンダーであるとし、閉じることのないカテゴリーを提案したジュディス・バトラーの思考とも重なる。しかしヘドヴァがバトラーと決定的に異なっているのは、それを実践するための「パフォーマンス」が不可能なために、公共の場=社会に現れることのできない人々に光を当てているという点である。
脇毛を見せることを選ばない「女性」
もう一つ取り上げたいのが、外に出れば見ない日はないと言っていい「脱毛広告」である。写真研究者・小林美香は、東京オリンピック関連のキャンペーンが都心に増加し始めた2018年から「脱毛広告観察」をスタートした。小林は、「ツルツルでなければ価値がない」と女性を脅迫する脱毛広告と、異なる身体を平等に扱うために「そのままでよい」と呼びかけるボディ・ポジティブの奇妙な合流を、脱毛広告における「girls power」「100% power girl」といった表現に見ている。
エンパワメントが「本来個人が備えている潜在的な力を引き出し、自信を持たせること」ではなく「能力強化」を目指すような言葉として理解され、和製英語の「girls power」が、あたかも「女子力を高める」手段の中に位置づけられるかのように変節している。[5]
こうした脱毛広告のあり方を見直した例として小林が挙げるのが、刃物メーカー・貝印のキャンペーン「ムダかどうかは、自分で決める」(2020年)だ。ここではバーチャルヒューマンのMEMEが、両腕を挙げて脇毛を晒すイメージが採用されている。一見、ボディ・ポジティブのメッセージを発する脱毛広告のカウンターのようにも思えるが、この広告もまた様々な問題をはらんでいる。
エンパワメントと商業主義の利用を特徴とするクィアと「新しいホモノーマティヴィティ」の親和性を論じる清水晶子は、ドラマ『Glee』におけるレディ・ガガ『Born This Way』のパフォーマンスに触れ、以下のように指摘する。
しかし同時に、この(引用者注:「私は変わらないし、このままでいい」という)主張がクィア・アクティビズムやクィア理論の姿勢を部分的に受け継ぎつつ、「私たち」と「あなたたち」とを峻別する既存の規範に対する批判的側面を大きく後退させ、「他の人と異なる私(たち)」のゆるぎない境界線を確認し主張する、いわば脱政治化されたアイデンティティ・ポリティクスの性質を強めていることにも、注意を払う必要があるだろう。[6]
貝印の広告にも同じことが言える。つまり脇毛を見せるというパフォーマンスは、自分こそが「ムダ毛を気にしない女の子」であることを宣言するに留まり、なぜ女性の身体が過剰に抑圧されているのか、という既存のジェンダー規範に対する反省を後退させる。また、そのパフォーマンスにおいては、そもそも経済的な理由で体毛を剃る/剃らないという選択をできない女性、体毛を剃っていないことを表明したくない女性、毛深すぎることに悩む男性、趣味のコスプレのために脛毛を剃っていることを普段は隠している男性……たちの姿は見落とされていると言うことができるだろう。
ここまで、社会に現れることのできない「Sick Woman」を生み出した構造を指摘するヨハンナ・ヘドヴァの論考、そして小林美香が指摘する「脱毛広告」の問題について考えてきた。現在はBlack Lives Matter、レインボー・パレード、ボディ・ポジティブムーブメントなどの活動が再燃する一方で、自分自身を表明することをもっとも必要としながら、その場に現れることのできない人々の存在が排除されている。個人的な感想を付け加えれば、筆者自身がクィア理論を改めて学んで感じたのは、歴史的にこれだけ議論や運動がさかんに行われてきたにも関わらず、まだ私たちは「自分が何者であるか」を表明しなければならないのかという絶望である。同時にそれを表明することは、表明できない/しないことを選択した人々の声を、一つまたひとつと掻き消すことにもなる。今回論じたように、「女性」をめぐる運動やイメージを取ってみても、そこにはつねに異なる身体を排除している可能性があるのだ。歴史的に抑圧を経験してきた女性にいま可能なことは、ヘドヴァが言うように、不可視の人々を内包するカテゴリーとして「女性」を開き続けることなのかもしれない。
[1] テレサ・ド・ラウレティス、大脇美智子訳「クィア・セオリー:レズビアン/ゲイ・セクシュアリティ:イントロダクション」『ユリイカ』vol. 28-13、1996、p. 68
[2] Joanna Hedva “Sick Woman Theory”, 2016, p. 3,
https://johannahedva.com/SickWomanTheory_Hedva_2020.pdf (2021年12月4日最終閲覧)
[3] 前掲書、p. 9
[4] 前掲書、pp. 10-12
[5] 小林美香「脱毛広告観察──脱毛・美容広告から読み解くジェンダー、人種、身体規範」『現代思想2021年11月号 特集=ルッキズムを考える』青土社、2021年、p.94
[6] 清水晶子「『ちゃんと正しい方向にむかってる』──クィア・ポリティクスの現在」、三浦玲一・早坂静編著『ジェンダーと「自由」──理論、リベラリズム、クィア』彩流社、2013年、pp. 319-320