映画『返校 言葉が消えた日』から考える弱者と歴史の表象(2021

 台湾は現在まで、国際政治につねに翻弄されてきた。そこで生まれた映画は独自のコンテクストを持ち、政治に取り込まれながら、そこで暮らす人々の生活や感情のかすかな揺れを内側から拾い上げている。ここには大きな歴史ではなく、生活者の営みを記述する視点がある。

 まずは、17世紀に遡って台湾の歴史を追ってみよう。元々オランダやスペインの植民地であった台湾は1684年に清国領となり、中国本土・福建省から多くの漢人が渡った。清の支配は及んでいたが、十分な統治が行われず、近世以前には混沌とした状態が長く続いた。その後、1895年に日清戦争に勝利した日本が統治権を得てから、約50年にわたって日本による支配が始まる。1945年の第二次世界大戦終了後、日本は台湾を放棄し、中国(中華民国)による統治が始まる。当時は蒋介石率いる国民党が代表政権であり、その進駐前から台湾にいた漢人を「本省人」、以後に大陸から渡来した漢人を「外省人」と呼んだ。1947年には、台北市で闇タバコを売っていた本省人の女性を大陸出身の役人が殴打したことに端を発して民衆が蜂起。この「2・28事件」をきっかけに、独裁色を強めた蒋介石政権は40年以上にわたる戒厳令を敷き、厳しい政治的弾圧(白色テロ)が行われた。1987年には戒厳令が解除され、ようやく自由化が始まることとなる。

 今回取り上げる徐漢強(ジョン・シュー)監督の映画『返校 言葉が消えた日』(以下『返校』)は、2019年に台湾で公開、日本では現在劇場公開中だ。特筆すべきは、台湾のゲームスタジオ「Red Candle Games(赤燭遊戲)」による同名の大ヒットホラーゲームの映画化だということである。舞台は戒厳令下(白色テロ時代)、1960年代の高校。相互監視と密告が強制されるなか、学校には禁じられた書物を読む「読書会」が教師と生徒によって組織されていた。ある日、ファン・レイシンが放課後の教室で目を覚ますとなぜか誰もおらず、学校も廃校に様変わりしていた。校内を彷徨う彼女は読書会のメンバーであるウェイ・ジョンティンと出会い、悪夢のなかで、読書会をめぐる暴力的な迫害事件とその原因たる密告者の悲しい真相に近づいていく。

 歴史家の丸川哲史は同作に登場する読書会に着目し、思想そのものが弾圧の対象となった時代を描いているにも関わらず、その思想自体が制作者のフィーリングによって決定されていると指摘している。作中、読書会で読まれる本は魯迅やマルクス主義に関するものではなく、当時禁書だったとは考えづらい、インドの詩人・タゴールや恋愛論で知られる厨川白村の作品であった。また、「左翼狩り」としての白色テロが始まったのは厳密には49年のことであり、47年の2・28事件と区別できていないことなど、台湾全体における曖昧な白色テロに対する認識が、作り手による無意識の選択によって『返校』に表れていると論じている。

 暗い時代を扱ってきた台湾映画の文脈において、こうした時間軸の操作は他にも見られる。例えば、2・28事件を描いた侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の『悲情城市』(1989)も、具体的に50年・52年に起きた蒋介石政権による迫害事件を題材にしながら、それが政権樹立前(47年)の2・28事件の混乱の最中で起きたように描いている。この点に関しては当時の観客からも批判が寄せられたが、同作の制作期間がまさに戒厳令が解かれた直後にあたり、様子を伺っていたことも要因のひとつに挙げられる。『悲情城市』は長く暗い台湾の歴史を描くものであり、同時にその当事者でもあるのだ。

 『悲情城市』から30年後の『返校』では、前述のように、歴史の不正確な記述がなされている。しかし丸川が言うように、こうした曖昧さは、現在の台湾社会が白色テロの記憶に拘留detentionされていることを示している。つまり、まさにその渦中にいるという意味ではなく、ある歴史的事実が改変されたり薄れたりしていく過程を目撃しているという意味での当事者性が『返校』にはあると言えるだろう。

 ここまで、『返校』における歴史認識とその表象について考えてきた。ではそのなかで「弱者」はどのように描かれているのだろうか。同作における時代・場所設定、そして男女のペアというモチーフは、楊德昌(エドワード・ヤン)監督の『牯嶺街少年殺人事件』(1991)に酷似している。この作品では、いわゆるチンピラたちの抗争の群像劇と並行して、戒厳令下の不安定な家庭環境など様々な要因が重なり、その「ほころび」として中学生男子が同級生の女子の殺傷にいたるまでが描かれている。少年たちは政権に翻弄されながらも、まるでその存在を内面化するように相互を監視し、映画のなかでつねに行動を共にしている(全員髪型や服装も同じで、登場人物の判別がつかないほどである)。これはまさにフーコーが論じた、権力の眼差しを内面化するパノプティコンと同じ構造である。またその結果、だんだんと「男」の集団が疲弊し、「女」に矛先が向くという家父長制が根本的にはらむ暴力を、思春期の感情の渦のなかで描いてもいる。ここでは絶望とともに、歴史に取り込まれたすべての人が「弱者」として表れてくる。

 『返校』において、こうした権力の内面化はより直接的に表象される。冒頭から「密告」を奨励する放送が鳴り響き、朝礼に向かう生徒の列の軍隊のような足音が強調される。もっとも象徴的なのは、兵隊を模したクリーチャーの顔が鏡になっていることである。反乱分子の首を持ち上げるクリーチャーは、苦しみにゆがむその顔を映し出す。しかしここで注目したいのは、レイシンがその手に捕えられた際、彼女の「私は忘れない」という一言によってクリーチャーの顔(鏡)が割れ、力を失って崩れていくシーンである。ここには、自分こそ読書会の密告者であり、それによって自死を選び学校の霊となった存在であることを悟ったレイシンが、しかしそれを忘れない=夢の中でジョンティンにその歴史を託すことを選ぶという、強いメッセージが表れている。

 レイシンが密告に至ったのは、読書会に参加していた教師への恋心に由来するささやかな嫉妬心からだ。つまりレイシンはその純粋な感情を大きな権力に利用された「弱者」である。しかし私がこのシーンに読み込んでみたいのは、クリーチャーこそが弱者だということである。クリーチャーは権力を内面化したそれぞれの生徒である以前に、多くの罪なき人々に手を下さなければならなかった憲兵でもある。「歴史を忘れない」という強いメッセージによって弱者としての生徒は前景化するが、そのとき同じく歴史の犠牲者でもある憲兵(自らの身体をもって権力を体現しなければならなかった者たち)の姿は崩れ去っていく。作中で憲兵や将校は明らかな悪者として描かれ、それがホラー映画としての形式を支えている。しかしこのシーンは、意図されていないにしても、誰が「弱者」であったかを無意識に選択する暴力性と、それが歴史の記憶にもたらす小さな亀裂を表していると言えるだろう。

 繰り返すが、同作が発するのは「歴史を忘れない」という強いメッセージである。時代の空気を捉え小さなほころびに注目した『悲情城市』や『牯嶺街少年殺人事件』と比較すれば、『返校』は、語られなくなりつつある台湾の歴史を伝えるためのイメージ化に向かっていることは明らかだ。同作が娯楽映画の傑作と言えることは措くとして、作品が伝える歴史におけるプロパガンダとまさに同じような仕方で、政治をエンタテインメント化しある種のスローガンを掲げる──弱者を意図的に選択し、権力側を「化け物」として描く──ことに対する評価には慎重になる必要があるだろう。

 ただ最後に、こうした歴史と弱者の表象における問題に対して、元のゲーム版では注意がなされていたことも記しておきたい。YouTubeにも多くの実況動画が上がり、世界中で『返校』がプレイされているという事実が示す通り、ゲームというメディウムは感染的な広がりを持つ。映画において私たちは観客という立場で歴史に立ち会うが、ゲームではまさにそのプレイヤー=当事者として出来事を体験する。プレイヤーは何度もセーブとレジュームを繰り返し、「忘れない」といメッセージ以前に、文字通り何度もその歴史を追体験する。もちろんゲーム内にもクリーチャーは登場するが、ノーマルエンドの場合、レイシンが首を吊ることによる自死を選ぶことによってゲームは終了する。映画ではレイシンの「弱者」性が全面に出ているが、ゲームでは自らの加害性への気づきが物語の結末となり、レイシンも含めたすべての弱者たちの存在に思いを馳せる余地が残されているのである。つまりゲームは、それ自体がはらむ他者表象の暴力性をプレイヤーに体験させる装置として働いている。

 『返校』は公開後に台湾の選挙にも影響を与えるなど、社会的なムーブメントになっているようである。日本では2019年のあいちトリエンナーレに代表されるように、表現そのものが政治になっているようなケースもある。ゲームやホラー映画といった形式によってその間を超えていく方法には、芸術ジャンルの明確な区別がなくなりつつある現在、多くの示唆があるだろう。

 

参考文献
・『文藝2021年秋季号 特集=怨』(河出書房新社、2021)
・『ユリイカ2021年8月号 特集=台湾映画の現在』(青土社、2021)
・『返校 言葉が消えた日』オフィシャルサイト https://henko-movie.com/
・「配信停止のホラーゲーム「還願」は、もはや二重の文脈から逃れられない:ゲームレヴュー」(WIRED、2019)
https://wired.jp/2019/03/03/devotion-controversy-review/
・『悲情城市』台湾の歴史的事件を記録した、侯孝賢の初期集大成(CINEMORE、2021)
https://cinemore.jp/jp/erudition/1964/article_1965_p3.html

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