現実が現実になるとき──目「ただの世界」(SCAI THE BATHHOUSE、2021)について(2021)

 高校生の頃、ひとりで地元の百貨店にいて、映画を見た帰りだった。たしかスパイ映画か何かで、すぐ映画に感化される私は、ふと人をつけてみようと思い立った。スキンヘッドの男性、この人なら特徴があるから見失わないはずだ。私はこっそりと彼の後をつけてエスカレーターを上り、家電量販店を歩き回った。しかし終わりは一瞬だった。まっすぐ歩いていた彼が突然、思いがけぬ方向にターンしたのである。まかれた、と思った。その人がささやかな尾行に気づいていたかどうかは問題ではない。そのとき、映画が現実になった/現実が映画になった。

 目[mé]の《Life Scaper》も、きっとこのような瞬間のことを指すのだろう。《Life Scaper》は、ヒアリング調査の後に目[mé]と契約を交わすことによって所有できる作品である。それは決まったかたちを持たず、所有者は「儚さや滑稽さ、美しさが伴う光景に遭遇する可能性を権利として得」[1]る。しかし、いつ・どこで起こるのか、その実態は誰にも明かされず、所有者が気づかないままに起こることもあり得る。本展は同作のインスタレーションを軸とし、そのなかにいくつかの小品が組み込まれている。

 会場を入ってすぐ目につく大きな写真のプリント《Reference Scaper》は、《Life Scaper》の事例を示すものだ。だが、写されているのは表参道の通りを歩く男性や、ATMのような場所に立つ人物の茶色いコンバースを履いた足元など、取り立てて特別とは言えない場面である。

 その他の要素に目を向けよう。まず空間全体は、積み上げられたクレートや段ボール、梱包資材などによって展示途中であるかのように構成され、2019年の個展「非常にはっきりとわからない」(千葉市美術館)を思わせる設えである。ここに岩やクシャクシャになった写真、つぶれたプラスチックコップなどが配置され、天井から吊り下げられた時計の針の群れが音を立てる。また、その隣の空間はシャツや作業着が掛けられたラックで囲われ、中央の机では白衣を着た仕立て屋のような女性が、紺色のシャツに黒い絵の具を塗りつけてドライヤーで乾かすことを繰り返している。その頭上には一枚の枯葉がぶら下がり、くるくると風に踊っている。

 会場に滞在してしばらく経つと受付のスタッフが、作品を購入しなくても契約時の説明だけを聞くことができると案内してくれる。番号札を受け取り、順番が来ると養生用のビニールを隔てた空間に通される。同じ回に集まった人々が椅子に座ると、スーツを着た男性が事例の写真を何枚かテーブルに広げ、作品の概要や、契約者が記入するシートについて説明する。それが一通り終わると、彼は質問を受け付ける。この会話に重苦しい雰囲気はなく、彼はとてもフレンドリーだ。自身が何者であるかは明かさないが、ところどころお茶を濁すように質問に答えたり、「〜って目は言ってました」と困ったように笑ったりする。

 彼が「もう質問はありませんか?」と私たちを急かす様子はない。しかし何か聞きたいことがないかと考えているあいだの沈黙はなんとなく気まずく、外の景色に目が向く。すると、エアコンの風で揺れる照明器具や、その奥の窓から見える、赤い傘を差して通りを歩く人物が、まるで仕組まれたもののように見えてくる。この状況こそが《Life Scaper》であり得ることに気づかされるのである。スーツの男性は紛れもないパフォーマーだが、では私の隣に座って話を聞いている女性は? 棚の上に置かれている花、手に握った番号札に書かれた4の意味は? 「考えるんだ、アリアドネ。どうやってここに来た?君はいま、どこにいる?」[2]

 これまで目[mé]は、美術館のふたつのフロアにまったく同じ光景をつくり出す「非常にはっきりとわからない」や、実物の岩と寸分違わぬ岩をつくって併置する《repetitive object》(2018、大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ)など、ある現実を実際の空間に複製する試みを行ってきた。多くの場合、会場の撮影は禁止され、SNS等におけるネタバレを避ける雰囲気が醸成される[3]。鑑賞者は会場に足を運んではじめて仕掛けを知り、両者のあいだにまったく差がないこと、もしくはそこに意図的に設けられた差異に気づくことで、虚と実のあわいを楽しむことができる。

 《Life Scaper》において、このたんなる虚と実という裏返しの関係は成立しない。なぜなら、目[mé]が対象としているのはひとつのかたちを持たない出来事であり、虚に対する実としての出来事も存在しないからだ。同作のなかに置かれた私たちは、ある現実を前にして、これが偶然の出来事なのか、あるいは仕組まれた出来事なのかを問う。しかしこの区別も、ある意味どちらでもよい。重要なのは、私たちが出来事を疑ってかかるということ自体、つまりその状況を細部までよく観察し、人やものの気配、風向き、その場の「感じ」に注意を向けるということである。つまり目[mé]は今回、虚と実ではなく、ふたつの実(の可能性)と言うべきものをつくり出すことで、私たちを不意にひとつの状況に「参加」させることを意図しているのではないか。

 ただ私たちはまた、《Life Scaper》が起こるのは会場の外であるということを知ってもいる。作品の可能性と空間的・時間的に断絶されたホワイトキューブで、いかに鑑賞者を「参加」させるか。これを実現するための重要な要素となっているのが、前述の契約のパフォーマンスであろう。

 会場に足を踏み入れた瞬間、それぞれのオブジェクトにはかなり唐突な印象を覚える。しかしハンドアウトを読みながらその間を歩き回ると、最初は無意味に思えたオブジェクト同士のつながりがなんとなく見えてくる──私は、ささやかな無数の出来事の一端に触れているらしい。そのおぼろげな関係性がつくられはじめたところで、私の体は突然形式ばった契約というシチュエーションに巻き込まれることになる。何かの勧誘を受けている、もしくは何かを買わされそうになっているような状況は可笑しく、同時に他者が自分の境界に入り込んでくるという緊張感もある。それは、契約者が記入するシートに目をやったときにより顕著になる。このシートには、自分の最寄り駅、よく行く場所、好きなものや好きな色、そして「大きな音は苦手ですか?」「多くの物事が同時に起きるとパニックになりやすいですか?」といった設問が用意されている。作品の性質を考えれば当然必要な情報だが、自分の生活いっさいを正体のわからない人に明け渡す不安や、恐怖、気味の悪さが否応なしに湧き上がってくる。

 このパフォーマンスを経て、誰かに尾けられていないか、何か仕組まれていないか警戒するような仕方で、私はもはや自分が置かれた状況に「参加」せざるを得ない。例えば、会場には一組の石がある。どちらも同じような色とサイズで、接地面は苔のような緑色がうっすらと付いている。この苔は本物なのだろうか。ひとつが本物で、もうひとつはそれを模して緑色の絵の具を塗っただけなのではないか? しかしこの疑問は、同じく会場のもう一組の岩を見たときに打ち砕かれる。このふたつの岩を前にして、目[mé]の過去作品を知る人は《repetitive object》を想起するだろう。だがよく観察してみると、かたちやクレーターの位置がまったく異なっている。ここで虚と実という関係は成り立たない。期待はずれに感じつつ私たちは、自分がそう疑ってかかることによって、目の前のオブジェクトの性質がいかようにも変化するということを知るのである。

 大量に時計の針部分だけを吊り下げた《movements》も、こうした二重の現実の可能性を象徴的に表すものだ。秒針のカチッカチッというリズムは微妙にズレていて、きっといくつかの時計は正確ではない。しかし文字盤を失った以上、何をもって正確とするかという基準自体も不可視になる。小さく響く秒針の音は、ただそれぞれが時を一秒ずつ刻んでいるという事実、それぞれを基準とした複数の時間軸が存在しうるという可能性を伝えている。

 パフォーマンスが蝶番のように機能し、《Life Scaper》の作品空間をふたつの現実の可能性として折り返す。そして半ば強制的に私たちの体を警戒のモードに置き、ある状況に「参加」させる。契約のパフォーマンスは50万円の作品を買うことができない鑑賞者に向けたある種のサービスのようにも思えるが、その見立ては間違っていないだろう。つまり本展は、《Life Scaper》というゲームが始まる前のチュートリアルのようなものなのだ。私たちの後を尾けて不可解な出来事を起こす組織のバックヤードを部分的に開示し、謎を残す。そしていくつかのオブジェクトや写真を例に、私たちがゲーム内でどのようにそれを疑ってかかるべきなのかを考えさせる。そして、ひとたびギャラリー空間を出れば、それが「ただの世界」ではなくなっているかもしれないということを、無課金ユーザーたる私たちにも味あわせてくれるのである。

 他者の生活に介入することで駆動する同作が私たちの警戒を駆り立てるとはいえ、経験自体は決して不快なものではない。私たちは日々働き、買い物をし、何かを求めてどこかへ出かけ、記録を残すために写真を撮り、いつの間にか体をどこかに置き忘れてしまった。《Life Scaper》は、こうした生活の煩雑さのなかから私たちの体を掘り起こし、「ただの世界」にもう一度向き合わせる。ここが「ただの世界」でなくなるとすれば、それはまた、ここが「ただの世界」でしかないことも意味しているのだから。

 

[1] SCAI THE BATHHOUSEのウェブサイトに掲載のプレスリリースより。
https://www.scaithebathhouse.com/ja/exhibitions/2021/07/me_just_a_world/
[2] 映画『インセプション』(クリストファー・ノーラン監督、2010年)より。他人の夢に入り込む産業スパイである主人公・コブが、はじめて他者と夢を共有したアリアドネに、彼らがまさにいま夢のなかにいると気づかせるために言うセリフ。
[3] 仲山ひふみは「非常にはっきりとわからない」の展覧会レビューにおいて、こうした「ネタバレの政治性」が批評の不可能性をもたらすと指摘している。https://bijutsutecho.com/magazine/review/21373

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