大きなものを知覚する(2018

 

 

 大きすぎるものは、近寄っても近くなったという感じがしない。それはずっと見えていて、視界を占める面積が増えてくると、なんとなく近づいたかなという感じがする。把握できるくらいの大きさのものは、こちらが動くと、向こうが動いているように感じる。それはそのものの縁(終わり)が見えるからだ。でも、あまりに大きいものは、ずっとおなじ面やパターンが続いていて、こちらが動いても向こうは動かない。だから、その中に入っても上にのぼってみても、実感が湧かない。

 今まで気づかなかったけれど、この街ぜんぶが巨人のからだで、私たちはその肩に乗って生活していたみたい。

 ダムも、あまりにも大きなもののひとつだ。ダムを目の前にすると、正面の情報が減って、まるでなにも見ていないような感覚になる。目の端で周りの風景が動いていて、たまに電線や橋、柵が線になって横切る。コンクリートは、遠くで見ても近づいて見ても、あまり情報の量が変化しない。ぐっと近づけばある程度汚れや骨組みの跡は見えるけれど、巨大さは変わらない。遠さも近さも掴つかめない、なめらかな面。

 ダムを横ななめ方向にのぼる電車のようなもの(インクラインという)に乗る。ダムの横の辺が、まるく反り返っているのが見える。どんどん上がっていく、地面が遠ざかる。急斜面に平行な乗り物の、地面に対して垂直に立てられた面の上に立っている。定位できなさ。ダムの上に開いた面に沿って進む。地面からは縦にしか見えなかったけれど、いまは横向きに視界がひらける。インクラインのレール、その横にあるらせん階段の手すり、山の斜面を支える格子状のブロックのパターンが、徐々に同じレベルで反復をはじめる。地上からの経験を巻き込んで、ゆるく回転しながら上昇する。

 宮ヶ瀬ダムは、RCD 工法という比較的あたらしい技術で作られた。従来は、壁面をブロックに区切ってコンクリートを流し込み、それを締め固めてまた上に流し込む方法で作っていたという。それに比べ RCD 工法では、インクラインでコンクリートを上に運んで打設し、層を積み重ねることによって、平面的に作ることが可能になった。建設の過程でも、分節されずにダムの面が面のまま立ち上がる。そして、コンクリートを上下に運搬していた線路が、いまは観光客を運んでいる。巨大な面が立ち上がってから私たちを乗せるまでの時間の幅と、コンクリートと人々の質量の幅。

 地図って高低差が書いてないから、坂になってるとか、そういう地形のイメージが持てなくて苦労するんだよね。と言うと、地図ってそういうものでしょと言われて、たしかに、と思う。ダムの劇的な落差も、それによって抑えられている大きな水のテンションも、地図ではすべてが地続きに、平等に扱われる。クッキーの生地みたいに。父が昔よくスポーツカー好きたちと走っていたという道のうねりも、湖を見るとき手がかりになる山の稜線の入り込みや前後の関係も、すべてが滑らかなパスになり、木や公園は緑色に、水辺は水色に、それ以外はグレーに色をつけられて一枚のすべすべの表面になる。ダムの地図はそういう意味でかなり高圧縮だけれど、ダムの影色の面や、オレンジ色のつくられた歩道の平たさ、人工湖の水面において、場所じたいと地図のイメージが結びつく。地形や環境に固有ではない抽象的なかたちが場に敷かれ、それを経験する。

 

※このテキストは、ZINE「大きすぎる馬」(小山華林、白尾芽、中西真穂)に掲載されています

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