《あなたがそこから見ているものは、私には見えない。でも、私たちはそれについて話すことができる(1)》
のスコアのテキスト全文(2017)
抽象的な場で行われるダンス
この生活が、この体が、あまりにも狭く、とてもつらくなる。もしこの体がもっとやわらかければ今すぐにでも踊り出したい、しかしそうできないので、やっとこさこの身を動かすために、動機や仕組みをどうしても必要としてしまう。だからとにかくスピードが遅い。体はいつでも一緒にあるのに、それは生活の中に埋没して、わざわざそこから救い出してやらないといけない。生活に絡め取られたままで、いつでも体が考えるようにすることを、意識的に方法としてできないのか?私 (の思考 )と体ではなく、私の体で考えること。体を私が後から追いかけるためのテキスト。体の速さに怖気付かないこと。体はいつも考えていると自覚すること。方法を発明すること。
風景を、風景と私の体を、私の体と生活を肯定?する、風景の条件として挟み込む。そもそもなんで風景なのか。風景は日々のいろいろな出来事の一番はじめのレベルにある、普遍的なものである。誰にでもよく知っている風景はあり、それは地元であったり、通学路、会社への道のり、恋人の家へ向かう道で、その日々の往来と個々の体の関係は無視できない。それから電車では、大量で高速の風景の到来を、同時に色んな人が経験していてすごいと思う。電車で、バスで、進行方向からこちらへ風景がやってきて、しかし横を見れば窓ガラスの反射で風景同士の吸い込まれる穴が発生する、そして自分の体が透けそこを風のように木々が吹き抜ける。風景のなかには、共有可能な要素と、共有不可能な要素が入り混じっている。いつもいつも飽き飽きしながら同じ道を歩き、ときに知らない道を歩いて少しずつ地図を作る行為は誰もがしていて、それを単に近道をどんどん編み出すとか、そういう実際に便利なこと以外にも、行き来そのものについてのモデルを作る。私(個々の体)の経験、それの折り重なった歴史自体を共有するのではなくて、普遍的なこととして捉えてみる。
私自身が、世界と折り合いがつくときとつかないときがある、気候や歩く道や音楽や空気の感じで過去の自分に貫かれるような感覚──デジャヴ?ではない、その時の感情が思い出されるとかではなくて、これを実際に体験したという実感だけが強くある状態になることが多い。あとは、電車やお店でつねに体が居心地が悪いというか、自分の身をどこに置いていたら良いのかわからない、ずっと自分の身が異質なものとしてくっつきまわっていて、どっしりとその場に居ることができない。だから、移動のあいだというか、ただただ歩いているときはとても良くて、風景が到来して、地形に合わせて体がただただ前に進みつづける、進んでいる時は迷うことがない、そして体は疲労して、電車に乗って帰る。それは単なる生活の話だと思ってたけど、意外と大事、そういう感覚が風景をつねに見るべきものとして現前させる、何のために?体が、ほかの時とつながるように。止まっている状態の間に、動いている状態がある。知っている道への、私にしか効果をもたらさないような試みから脱して、さまざまな体に向けて試みるとき、単純に裏返しとして「知らない道」に向かってみようと思う。知らない道とは、私が選ばなかった道であり、誰かがある場所で選ばなかった道のことである。私自身が知らない道は、この世に無数にある。むしろ知っている道のほうが圧倒的に少ない。この時、無数の知らない道に関わろうとすることは難しい。なぜなら私のこの身は一つしかなく、日々の生活のなかで移動できる範囲にも限界がある。だから、私に知らない道があり、あなたにも知らない道がある、ということについて関わろうと思う。私と同じように、あなたにもたくさんの移動の経験のなかで選ばなかった道がある。それがどんな道かは分からないけれど、選ばなかった道があるということは私にも分かる。しかし、知っている道の引力はあまりにも強く、それを離れてある程度抽象的に考えることは、とても難しい。知っている道を体からなんとか引きはがし、知らない道へと、そして、あなたにも知らない道があることへと繋げていく。それは、自分のこの限られた体を、限られたままで少しだけ外側に拡げるような作業である。そして私は、その拡がった体の輪郭に自分で触ってみたいと思う。自らの《あなたがそこから見ているものは、私には見えない。でも、私たちはそれについて話すことができる(1)》のスコアのテキスト全文内部のイメージによって外側の体を獲得するというよりは、外側になにかを想定して、それによってぐにゃぐにゃになった体を、あとから発見するような行いだ。
抽象的な場で行われるダンス。たとえば、自分が待ち合わせ場所にいて、道に迷った相手と電話をする時。相手は、自分のいる場所を必死に説明する。私は、その説明に体をフィットさせて、待ち合わせ場所までの道のりを教える。このとき、待ち合わせ場所に二人がいるという状況は達成されていないが、ひとつの待ち合わせは成功している。二人はまったく違う場所にいるけれど、それぞれの体のままで、たがいの場所への想像力を膨らませ自分の体を少しだけ押し広げる。ここには一時的な、架空の場所が生まれる。それは、協働?とは性質の違うものだと思う。協働とは、ひとつの待ち合わせ場所に向けての道のりを選択し、ともに決定していく過程のことである。しかし、この架空の場所──抽象的な場所は、個々の体の歴史(これまでの経験)や性質の違いを前提として成り立ち、その差異から生まれる。たしかに待ち合わせ場所という目標はあるけれど、そこに「来ること」というよりも、まず「来られないこと」から始まる。どうやって来るかは、個々の体で行えばよい。しかし、「来れない」ときにある架空の場所が開かれること、そこで踊ってみること、それは新しい共存のための場所になると思う。
すごくない体で踊るために
ダンサーの体はすごい。もちろん振付に沿って踊ってはいるけれど、そもそも体が、踊るための体としてある。いくつもの関節が同時に稼働し、目が追いつかないほどの速さで次々とその形を変える。そして一瞬の形は、動きのイメージを私たちに与え、残像のように一連のシークエンスを作っていく。すごい体は、それ自体で形態 formを作ると同時に、方法formをもつくり出す。与えられた振付(外在するもの)に沿うだけでなく、体そのもの(内在するもの)を動機とすることが可能なのである。具体的に言えば、すごい体は、即興を方法として行うことができる。子どもが暴れまくり走り回っていて、なんだか面白い体をしているな、と思う。もう一回やって、と言っても、すでに元気がなくなっているし、照れ始めてすらいる。子どもの動きは一度きりという意味では即興と言えるが、そこにはなんの秩序もなく、ただのめちゃくちゃである。これに対して、ダンサーが暴れまくるとき、めちゃくちゃに見えても、そこには何らかの秩序が存在する。彼 /彼女が、それを意識しているかどうかは問題ではない。たとえ意識していなくても、体の側にはたしかに今までの動きの経験、歴史が積み重なっていて、その膨大な時間の上に一度きりの形が生まれる。もう一回やって、と言ったら、同じ形は生まれないが、その状態をもう一度体に呼び出し、べつの形で繰り出すことができるだろう。ここで大事なのは、ある即興が再現されるということではなく、同じ状態を、違う形で起こしつづけることができるということだ。即興とはひとつのめちゃくちゃのことではなく、技術(内在するもの)の無数の可能性の一つを実現することである。
ダンサー的なすごい体に対して、私のこのばきばきでぐにゃぐにゃの、すごくない体における、即興のあり方を考える。すごくない体を動機として動く。めちゃくちゃの真似ではなく、違う方法で同じめちゃくちゃを起こそうとする。すごくない体には、動き単体(舞台などプレーンな場所での体の訓練など)の歴史はあまりなく、あるのは生活ーー学校に行く、アルバイトをする、食事をする、寝るーーに埋没した体の経験だけである。しかしこのことを否定せずにそのまま引き受けて、この俗っぽい体から動きを生み出し、即興をすることはできないのか。すごい体においては一瞬で、頭より先に体が理解するようなことを、とにかくがんばってやってみる。これをすごくない体がひとりで行うのは、とても大変である。すごくない体から動きを引っ張り出す、動きの「良さ」のようなものに対して価値判断を自分で下すのは難しいし、そこに共有可能性はあまり無いような気がする。それよりかは、今の動きはこういう理由でよかった、と言う他者がいた方が、このすごくない体を道具として使用しやすくなる。
たとえば、誰かのある一連の動きを記録し、それを他の誰かが練習し、技術として身につけようとする。体の動きを後から発見し、それがどこから来たものなのか、他のどの部分と関係しているのかをしつこく観察する。また、素材になる体と練習する体がどちらもすごくないとき、動きにおいてノイズの割合がとても高くなる。ノイズとは、言い淀み=動き淀み、戸惑い、動きの癖、正面と方向の認識、極端な雑さと丁寧さ、といったもののことである。これらは、どのすごくない体にも過剰に存在し、個体差が大きい。練習の過程においてノイズは、素材になる体から練習する体へと掛け合わされながら、しかし動きの分析をとおして一つの踊りのモチーフ(たとえば、家から最寄り駅まで行く道のり)へ向けて収束する。ここにみんなで行こう、ではなくて、それぞれの体でがんばって、向こうで会おう、を目指す。
発話と速度/トレースから離れて
動きの動機を発話に求めるのは、とても厄介なことである。そして、その発話が想起に基づくものであるとき、さらに厄介なことになる。話しながら動くとき、それはすなわち動きながら話しているということである。体の動きは話に従属しているように思えるが、実際に観察してみると、体の動きが話の内容を先取りし、あとから発話がついてくるという場面はよく見られる。発話の空間においては、体も(体が)思考している。体は決して、ジェスチャーだけを生み出しているわけではない。それ自身の揺れ、癖のようなノイズを強烈に発しながら、自らの発話と関係しながら思考し、次々と高速で変化する。すごくない体でも、このような複雑な事態はつねに起こっている(そこから静止した形態の連なりを見出すのが難しいだけで)。
何かを思い出しながら喋るときは、とにかくスピードが遅くなる。そして、話の時間軸のなかで、あーなんだっけ、あれ、あれ、と言っている間は、時間が止まる(なくなる)。思い出すのに時間がかかり、話しが止まり、動きが遅延する。ノイズと形の変化のもつれ合いのなかに、ふと空白の時間が生まれ、体は確かに考えてはいるが、形態を意識的に繰り出すことをやめてしまう。
こうした体の複雑な変化と遅延を観察し練習しようというとき、いったいどこから始めれば良いのか?と途方に暮れてしまう。振付を作るとき、まず、素材となる体の動きを完全に写し取る=トレースすることを考えた。しかしこれは、とにかく苦しい作業だった。発話と動きの同期 / 非同期を完全に体にインストールし、記録された一時点のスピードで完全に再現しようとすること。トレースの練習は、ものすごくゆっくりからしかはじめられない。それを実際のスピードで、しかも5分程度やるのは、1か月あっても不可能に近い。トレースはあまりに大変なうえに、ともすると、再現に留まってしまう(トレースを方法として生み出されるすごいダンスもあるが、すごくない体にとってはただのきつい鍛錬になってしまうという意味である)。
記録された時点をべつの方法で起こすとき必要なことは、実際の発話ー動きの速度から抜け出して、自分たちの体で新しい速度を作るということだ。速度は、リズムとも言い換えられるかもしれない。実際の速度は、あまりにも早すぎる/または遅すぎる。トレースから抜け出して、「早すぎる」を解決した次に問題になったのは「遅すぎる」ことだった。それが、思い出しながら話すときの空白の時間である。話にノっているときの体は、動きを作る手がかりにしやすい。しかし、空白の時間になると、一気に動きが後ろに遠のき、ぶらぶら揺れているだけのただの体が出現する。ただの体とは、形態 formになっていない体のことである。形態がないと、一気に振付を作る手がかりがなくなる。なにかを考え、思いだしている演技をするのも違うし、静止してしまうのも違う。練習のとき、この空白を引き受けた私の体は、ゆっくり動くこと、まるで言い淀みに体の端々が押しとどめられているように動いた。いまここにある私の体が、過去の発話の内容に関連して動きを繰り出しながら、その遅さによって強制的にゆっくりにされてしまう。ここに新しい速度=テンポが生まれる。自分の体を、過去の発話における内容をきっかけとして動かしながら、同時にノイズ(遅さ)、形態(部分的なトレース)によって外側に押し拡げる。ある時点 の体に触りながら、自分自身の体においても思考する。