ダンスについての大まかなスケッチ、空間としての時間/時間としての空間 「私」の経験をダンスの場に積み上げることについて(2019

ここはあまりにもせまいから、起きていることばっかり見る私たちの暮らしは半径30cmの視野

 電車で席に座ると、横一列に並んだ人々が全員携帯を見ていて怖くなる。私は出しかけた携帯を、何に対抗するともなくポケットにしまう。同じ空間にいるのにみんな半径30cmの視野しか持たず、全員が違う場所にいる。みんな行きと同じ道を帰り、だいたい同じことをして同じように眠り、同じように起きる。私たちが暮らす街はあまりにもせまく、私たちの視野はもはや30cmで足りてしまう。満員電車では隣の人の体を無いものとして、ぴったりとくっつくことができる。せまい視野から一瞬離れるのは、大きな声を出す変な人を見たときくらい、かもしれない。

  ダンスは見るのが難しい(Dance is hard to see)[1]。ダンスを見るとき、私たちはそこで何が起こっているかを知りたい、正解を知りたいと思う。しかしそれはあまりにも一瞬で、つかもうとした途端にばらけてしまう。せまい街のなかのせまい視野で生活に事足りる私たちには、ダンスの空間は広すぎるのかもしれない。

 スコアやその作品に関するステイトメント、批評を読むことは、たしかに作品を理解するための一助となるし、そこにはある種の楽しみがある。しかしダンスの場には、先ず動く身体が存在する。私たちはダンサーと時間/空間を共有し、スローモーションや抽象化された図のかたちではなく、身体が動くのと同じ速度でそれを見る。ある動きに対する正解は提示されることなく、バラバラなシークエンスがただ空間に到来し続ける。それはいまだ訪れていない全体を予期させるものでありながら、同時にその予測を裏切るものでもある[2]

 「ジャドソン・ダンス・シアター」は、イヴォンヌ・レイナーやトリシャ・ブラウン、スティーヴ・パクストンらが中心となってニューヨークで活躍し、後のコンテンポラリー・ダンスに大きな影響を与えたダンス集団である。彼らは、バレエやモダン・ダンスに見られるスペクタクル的な性質を批判し、いわゆる日常の動きを「タスク」という振付のアイデアとして導入したことで知られている。つまり、神秘的に装うことで隠されていたダンサーの身体そのものを開放し、日常における身体の再発見を舞台上(ダンスの空間)に出現させようとしたのである。しかしタスクという試みは、果たして本当に「日常の肯定」という言葉で足るものだろうか。当初は「歩く」「ものを運ぶ」といった身振りを取り入れる装置であったタスクは日常を越え、ダンサーに過剰な負荷をかけて「大変なこと」をさせる装置として働く。いっぽう観客にとってそれは、日常的な動作に由来しているがゆえに動きの反復や因果関係を掴むためのトリガーとなる。観客はリアルタイムにそれを手がかりとしながら、ダンスの空間、そして自らの身体の経験へと意識を集中させる。ここでは、物語や美しさへの没入や没頭が否定されながら、スペクタクル的な性質を持つものからまったく別のものへと変化し、新たにダンサーと観客の双方に課せられている。

 観客とダンサーのあいだに、ブラックボックスとしての「訓練された体」ではなく、共有可能(であるように思える)ものが差し挟まれる。ダンサーを駆動する振付を直接見ることはできないが、観客は動きの手がかりを拾い集めながら、その身体を追うことに集中する。いっぽうダンサーは振付を遂行することに集中し、たとえば前述のタスクやその他のモチーフによって、自らも思いがけぬような身体が開設されることを待つ。私たちとダンサーは同じダンスの場にありながら、違うことに没頭している。ダンスは、どこかに不可視な構造を持つその性質によって、異質な空間/時間を作り出す。

 ではダンサーとそれを見る観客は、いったい何を共有したといえるのだろうか。ひるがえってみれば、私とその隣にいるあなたですら、ダンスの空間に異なる何かを見ているかもしれない。ダンスの空間には、街や光などの環境、その人固有の経験、あるいはアイデンティティや幼少期の記憶といった、捉えがたくあいまいな幾多の空間/時間がデジャヴのように到来する。それらは、空間で唯一具体的な個々のダンスのシークエンスを蝶番として、それぞれの身体のなかで出会い、絡み合い、新たなひとつの経験をもたらす。これは観客だけでなく、ダンサーにも起こっていると言える(例えば、ある作品のなかで自らの過去の作品を引用することによって、ある経験はもう一度使用され、そこに内在する個別の事象が書き換えられる)。

 不可視な個々の生活を抱えながら、私は観客としてどのように作品を解体することができるだろうか。ダンスの空間において何が起こっていると言えるだろうか。まったく異なるものを見ながら同じことについて話す私たちは、何を、どのくらい共有した、と言えるのだろうか。

バイクレーサーが止まって見えるのは、カメラマンがバイクと同じ速度で動いているからだという

 すでに書いたように、ダンスをそれが起こる速度で見ることは難しい。したがってダンスを見ようとする=分析しようとする手つきは往々にして、細かく分析する(スローモーションで見る、あるいは画面上の操作で要素を整理する)、もしくはその印象のようなものを伝え、ダンス史の上にマッピングしていく、というスタイルを取ることが多いように思われる。

 それ自体がある状況に先行した記述であるスコアをつくるうえで、「速度」は観客だけでなく、ダンサーにとっても大きな問題である。「タスク」のアイデアをダンスの実践において推し進めたイヴォンヌ・レイナー(1934〜)は、66年に《Trio A》を完成させた。レイナーは同作に関わるテキストのなかで、それまでのダンスに見られる「見かけ」のエネルギーを批判した。見かけのエネルギーとは、実際の身体に関係するものではなく、導入部分やクライマックスがあるスペクタクル的なダンスのために用意されるものである。レイナーは、こうしたエネルギーの見た目がダンサーの身体のみに由来するものではなく、観客(の視覚)との関係のなかで築かれるものであることに注目した。そこでレイナーは、こうしたスペクタクル構造を脱臼させるため、「見かけ」と実際のエネルギーを一致させるのではなく、そうしたレトリックを逆説的に浮き彫りにするように《Trio A》を構成した。同作における動きは徹底して均一でニュートラルなものとしてつくり込まれ、観客は動きに特徴的な点や、ある動きの反復を見出すことができなくなる。こうしてレイナーは「見かけ」のエネルギーやクライマックスに向かうスピードを避けるための労力こそを露出し、自らの身体をもってダンスの「見ることの難しさ」を提示した。それは自らの手の内を巧妙に明かしながら、正解を求められないダンスを見ることを、観客に教育する試みであったとも言えるだろう[3]

 また、日本のコンテンポラリー・ダンサーである手塚夏子が2001年にスタートした「私的解剖実験」から、「トレース」の方法論にも注目したい。「トレース」は、ある時点で記録された他者の動きを振付として、文字通りトレースする=自分の身体に写し取ろうとするものである。09年の《プライベート トレース2009》は、手塚と夫、子供のいる日常の風景を映したビデオの断片から、夫の動きを舞台上で手塚がトレースするという作品である。同作では、3つのプロセスが示される[4]。①「右手で左足首よりちょい脛側を掴む/眉間を生え際まで伸ばしそこで前を見る」:動きを詳細にとらえた指示の音声が流れ、その速度にあわせて手塚が動く。②「しゃべってうーん/ためて うなずくよ/ほーらーね/1、2、 3/うん/あー ざんねん」:歌のような指示で、現実のスピードにより近づけたかたちで手塚が動く。③実際の映像の音声だけが流れ、それにあわせて実際のスピードで手塚が動く。もちろん上演にあたって、手塚はすでに③を実行できる状態にあるが、ある種のパフォーマンスとして一連のプロセスを行ってみせる。①で身体の動きはスローモーション的に解体され、②においてはそれを現実の時間で行うための振付の方法が発明される。「あーざんねん」は、「あーざんねん」というリズムと、「あーざんねん」という動きを同時に示している。トレースは、それをダンサーの身体に実装するとき膨大な時間を要する。手塚は、初めから現実と同じ速度でトレースを行えないダンサーとして、そして振付を生み出すコレオグラファーとして、その時間のグラデーションを舞台に上げたのである。

 両者が設定した問題は異なる種類のものだが、どちらもダンスの速度、そして記述の問題を扱っている。すなわち、どこにも位置づけられないようなニュートラルな身体、あるいは自分とはまったく異なる他者の身体を装う。そして、何かを見る、あるいはつくり出すときに生まれる時間の枠組みをずらし、作品のうちに取り込んでしまう。時間は現実の空間に流れながら、振付のなかで引き伸ばされたり縮まったりして、観客にいつもとは違う知覚を要請する。

 本稿ではトリシャ・ブラウンの作品を軸に、ダンスの空間の記述が既存の方法に寄りかかってしまうことを自覚しながら、できる限り違ったかたちでそれを行うことを試みる。ダンサーたちが試みた前述のような時間のずらしに加えて、もう少し大きな時間の幅(それは私の生活や経験としての〈生〉に関わるものだと言えるだろう)をとらえること。誰かの伝記を、私自身の経験と取り違えながら編むような仕方で。

黙っているのになにかを話しているとき/その場にいながらそっと姿を消しているとき

 「ジャドソン・ダンス・シアター」の一員であったトリシャ・ブラウン(1936-2017)による《Accumulation with Talking plus Watermotor》(1979初演)は、こうしたダンサーと観客をめぐる記述の問題、そして異なる集中のあり方を構造的によく表している作品と言えるだろう。同作は、シークエンスを繰り返すごとに単純な動作を一つずつ付け足していく《Accumulation》と、激しい動きのコンポジションとしての《Watermotor》を交互に踊りながら、さらにダンサーがあるストーリーを発話し(Talking)、それが後半部分でAとBのふたつに分岐して交互に語られる、という構造を持つ。

 まず手がかりとして、同作を記録した映像作品から始める(ここで見るのは、初演から時を経た1986年にジョナサン・デミ監督のもと撮影された映像である。ダンス・フィルムとしてつくり込まれたこの映像においては、ダンサーの身体の一部を切り取るフレーミングやカットの切り替え、音響の効果が強いことを記しておく)。

 冒頭部分、地面を確かめてリズムを作り出すような足踏みと、突発的な足の動きを交互に映し出しながら、「Start.. Started… Starting…」と3つの時制が語られる。ダンスは《Accumulation》の特徴的な手のジェスチャーに始まる。カメラは足、その後胸から腰を含む手元のみを追い、次に短髪の女性がドアを開け、スタジオに入ってくるところを捉える。そしてちょうど180度反対を向き、ダンサーの背面と撮影用の照明が置かれたスタジオの全体像が与えられ、その後やっとダンサーの「顔」が映し出される。

 映像のなかで印象的なのは、観客を写したカットの多さである。とくに前半部分では、観客が「なにかやっているぞ」とでも言いたげな表情を浮かべながらドアを開けて部屋に入ってくるカット、次にダンサーがその観客を振り返る(ように見える)動きから始まるカット、という連続が執拗に繰り返される。後半部分でも、観客の方を向いて動きを繰り出す、もしくはカメラを正面として(つまり映像を見る我々の方を見ながら)語りを行うなど、ダンサー対観客の視線という構図は維持されたまま、全体が進行していく。

 ブラウンはこのダンス、そしてそれを見る観客の存在について次のように語る。

「それぞれのパフォーマンスには、私が自分のプロジェクトのレパートリーを点検している時間である、沈黙の切れ目が存在する。観客が自らの意図を持続させる一方で、沈黙は私の意図を中断させる。私は再登場し、語りを取り戻し、一定の間それを保持したまま進んでから、またいなくなる。おそらく立て続けに起こる行為か、謎めいた動詞の環によって沈黙させられるのだ。第二の話の追加によって、私の頭脳は四つの要素すべてを取り囲むために広がり、ダンスは音を立てて飛び回り、ディティールとニュアンスは混じり合う、終わりが私に近づき、私も疾走し、両者は出会う。/四重の拘束は選択のプロセスを覆し、もしくは再び創造する過剰な負担を創り出す。作品の形式は、やるべきことの困難さによって課せられ、パフォーマーの気力によって取り継がれていく」。[5]

 ここでは、観客と私(ダンサー)の意図がダンスの空間に存在することが示されている。両者の意図の中心にあるのはダンサーの身体だ。過剰な負荷によってダンサーは沈黙し、振付を遂行しようとするダンサーの意図は中断させられる。その一方で、なにが起こっているかを知りたいという観客の意図は持続する。そのなかでダンサーは、ひっそりといなくなることと、自らのレパートリーを点検して再登場することを繰り返す。この小さな告白は、ダンサーの身体が沈黙の状態にあろうともそれを眼差しつづける観客こそが、ダンスの空間を牽引していることを明らかにする。しかしもうひとつ、空間を駆動するものがある。それはほかでもなく、ダンサー自身の気力である。ブラウンは「終わりが私に近づき」と言う。私が終わりに近づくのではない。没頭しているうちに、終わりが私に近づく。すべての工程を終えたブラウンは弱い笑いを浮かべながら床にへたり込み、それをもって終わりを理解した観客は拍手と歓声でその帰還を迎える。

 ダンスの空間においてこれほど生々しい身体と頭脳のやり取りが行われているにも関わらず、ダンサーの身体は「そうあるべきもの」として観客に受容される。ブラウンは次のようにも語っている。

「はじめのうちは(…)なんであれそのとき頭に浮かんだことを、ほんとうにそれを言いたいのか、と自問する沈黙に続けて、私は話した。作品の言語的な内容について観客と私は、ほとんど同じ瞬間に知ることになった。私は自分が見て、感じて、考えさせられたものについて、自分自身について、ダンスすることについて、そしてこのダンスを作ることについて話した。それは実験だった。もし筋肉が喋ることができれば、なにを言うだろうか」。[6]

 観客と私(ダンサー)は、作品の言語的な内容をほとんど同じ瞬間に知る。ここではすべてを掌握するダンサーと、それを享受する観客という構図は放棄される。語りとそれに伴う振付の切り替えを、ほんの少し遅れて追うことしかできない観客と、不確定な要素を内にはらんだまま振付を遂行するダンサーは同じ地平に立つことになる。その空間全体のレベルを保ちながらも、ダンスはダンサーの気力そのものによって取り継がれる。かつて舞台の裏に隠されていた「訓練された体」は、混乱をもって身体の表面をこわばらせるダンサーの身体の裏で、そして観客の目の前で、堂々と隠されることになる。

生きていればわかることは、生きていなければわからないこと

 彼女は「自分が何をやっていたか知っている?」と尋ねました。私は答えました「自分自身に何を即興で行うべきか指示していたかは知っているけれど」。すると彼女は言ったのです「あなたは飛んでいたのよ」。[7]

 ワシントン州・アバディーンの街で幼少期からバレエを習得したブラウンは1960年の夏、24歳でアン・ハルプリンのワークショップに参加する。そこで彼女は「デッキを箒で掃き続ける」というタスクを授かり、そして数時間後、空中に浮かび上がった。

 「訓練された体」は、観客から見れば謎に包まれたものである。しかし同時に、箒でデッキを掃き続け、気づいたら空中に飛び上がっていたという経験は、なんとなく理解できる、体で「わかる」ような気がする。例えば無心の風呂掃除、カレーをつくるための美しい順番、夜中の散歩――日々の動きの繰り返しや決まった動作のなかでエネルギーが体のどこかに溜まり、飛び上がってしまいそうになる。なかばオカルト的にも聞こえるこのエピソードはまず、誰の体にも等しく眠っているポテンシャルに光を当てる。次に、訓練された体と即興の出会いを鮮やかに描き出す。習い覚えた動きを保持しつつその感覚を排除し、誰もが持っている(かもしれない)動きの可能性を端緒として、ひとつのダンスが観客と同じ地平から出発する。しかしダンサーの体を、習い覚えた動き/即興という対比の中でのみ考えることはできない。観客が自らの体をもってダンスの空間と日常の空間を結びつけるとき、同時にダンサーの体もまた日常の空間と地続きに存在する。コンタクト・インプロヴィゼーションの旗手であったスティーブ・パクストンは、ブラウンのダンスについてこう記している。

「そこでは、演者に自主性を十分に発揮させて、『習い覚えた動き』の感覚を排除することが目指されている。いわばシナリオの大筋を示し、演者がそれを肉付けするわけである。つまり演者が即興で行う身体の運動が粗筋に肉付けする一方で、精神は現実に進行する時間の中で身体に住み着かなければならず、しかも身体を制御してはならない。この過程は創造行為の一部とみなされる」。[8]

 現実に進行する時間はすなわち、ダンスの空間に現在進行系で流れる時間だけでなく、その体が生まれてから現在にいたるまでを常に含み込む。ダンサーの身体はそうしたタイムラインを一手に引き受けながらどうしようもなくダンスの空間に縛り付けられ、そのなかで振付を遂行しながら、即興によって周囲の環境を粉々の鏡のように反射する。つまり、体に内在する無数の時間が、振付を蝶番として現在と出会う。そして観客はそのバラバラな動きを必死につなぎ止め、そのなかに家の電子レンジ、野良猫の動き、一番好きな喫茶店、道に落ちている靴下、昼食のサンドイッチ、タオルケットの肌触り、田舎の風景……をデジャヴのように見、同時に、隣の人の咳払いや衣擦れ、窓の外の葉っぱの運動を見ることになる。

 ここでブラウンのダンスを、自らの〈生〉そのものをひとつの体で引き受けながら、その主体をほうぼうに分裂させるものとして見ることはできないだろうか。ブラウンは、彼女らが関わったジャドソン・チャーチ・シアターをはじめその後のダンスの潮流に多大な影響を与えた作曲家、ジョン・ケージとの出会いに寄せて「人の選択肢を分裂させるというアイデアにはじめて具体的に触れたのがそのときでした。新しいさまざまな関係へと、それはダンスの素材を終わりなく探求しながら、戯れることのできるオブジェクトであるように変えてしまったのです」と語っている。[9]

 ほうぼうに散らばる身体の断片に、引き裂かれた私が触る。踊ることによって「私」はこの体の外部に次々と開設され、じかに触ることのできるひとつのオブジェクト=素材になる。このときダンサーと観客の間にあるのは、「共犯関係」「見るー見られるの反転」と言いうるようなものではなく、それぞれに重くのしかかる私の生活にほかならない。

  わたしの、この身体という感覚もまた、押し寄せるバラバラのイメージを繋ぎ止める全体として開設される。視覚や触覚、様々な外部刺激の感覚は、押し寄せるバラバラのイメージだ。同時に擦られるゴム手の中指とわたしの中指の爪感覚、触覚刺激は、バラバラのイメージの奔流としてわたしに押し寄せる。これら未知のイメージを繋ぎ止めようと、既知がやってくる。こうして貼り合わされた全体=既知こそが、わたしの身体性である。果たして、ゴムの手は、わたしの、わたしに帰属する手と知覚されることになる。わたしの身体が、開設される。──郡司ペギオ幸夫『生命、微動だにせず』青土社、2018、54頁

口はひとつしかないけれど、地球の裏側ではちょうちょが羽ばたいた

  しかし形のシークエンスとは、連鎖する一続きのできごとである。そしてそれらの連鎖をもたらしているのは、伝記的記述とは逆のこと、つまり個人を、彼が置かれた状況から理解しようとする分析なのである。──ジョージ・クブラー『時のかたち』中谷礼仁・田中伸幸訳、鹿島出版会、2018、78頁

 ここで、もう一度《Accumulation with Talking plus Watermotor》からはじめてみよう。同作の前身といえるのが、1973年にパリのアメリカン・センターでレクチャーとして行われた《Accumulation with Talking》であることは興味深い。

 レクチャーの空間はダンスと同じく、観客(聴衆)の「正解を知りたい」という欲望によって駆動されると言えるだろう。アーティストやダンサーなど「(作品を見ただけでは)なにを考えているのかわからない」人々が作者として現れ、自らの経歴やこれまでの思考を発表する。ブラウンのレクチャーにおいては、ひとりのコレオグラファーがダンサーたる自身について解説する、という構図が求められていたということは想像に難くない。彼女は自らのダンスの創世記からパフォーマンスの歴史までーービーチでのダンスの練習や、馬に乗った警備員によって公園でのパフォーマンスが邪魔されたことなどーーその記憶を語りながら、出来事の数々にその創造の過程をはめ込むようにレクチャーをし、そして、その語りと同時に《Accumulation》を行った。ダンスをしながらダンスについて話す、あるいはダンスについて話しながらダンスをする。このときの様子について、イヴォンヌ・レイナーとの対談のなかでブラウンはこう語っている。

「私はこう言ったんです、『この動きとこの動きをつくるあいだに、私の父は死んだ』。本当にびっくりした。私は自分の体が、動きのパターンのなかに記憶を蓄積していたことに驚きました」。[10]

 ここには驚くべき「私」たちの圧縮がある。まずブラウンはレクチャーの空間に、当の話題であるダンスを持ち込むという自己言及的なシステムを導入した。実演と言うべきこのシステムのなかでは、自身の歴史の始まりからいま・ここで進行するダンスまでのタイムラインが示され、一人称的な視点が呼び込まれる。「この動きとこの動きをつくるあいだに、私の父は死んだ」という語りのなかには、「この動きをつくったとき」「父が死んだとき」という、異なる大きさをもつ過去の出来事が同時に現れる。こうしてブラウンはこのダンスの来歴と動きの動機を、作品のなかで入れ子状に示すという複雑な方法をもって、レクチャラーとしての役割を遂行してみせた。作品の歴史は、私の生活を抱え込んだダンサーへと一挙に紐付けられ、様々なイメージはダンスの空間を中心に乱反射をはじめる。そして語りはダンスによって中断され、語り―ダンスの主体は振付家とダンサーのあいだで引き裂かれる。そしてこの試みは観客をも安定した聴衆の役割から引きずり下ろし、ダンスの空間に殺到する私たちの〈生〉への参画を促すのである。

 同作の前身として、ブラウンは1972年に〈Accumulation〉の動きを横たわって行う《Primary Accumulation》を亡き父に捧げ同年5月には〈Accumulation〉の4分半の動きを55分に拡張した《Accumulation 55》を踊った。このダンスについてブラウンは「それぞれのジェスチャーに対する誠実さについて、寝ずの番vigil overをするための現在進行形のプロセス」と記している。これは〈Accumulation〉の動きの発明と、彼女がアバディーンに帰省し、病床の父を寝ずに看病したvigil overことが同時期であったことを示している。

 こうしたタイムラインにおける特徴的な出来事は、ブラウンが記したノートのなかにも見ることができる。1976年、彼女はかつて通っていた高校で女子同窓生に贈られる賞を受賞し、記念のレクチャーを行うため再びアバディーンに戻ることになる。訪問のあいだ、彼女はこう記している。

「私は、いまはコミュニティセンターとなっている古い病院に、ある授業を教えるために向かったーーそこは6歳のとき、恐ろしい手術の舞台となった場所だ。そこはいまやただの古い病院であり、私の幽霊は自分の身体と再会するため、廊下を荒れ狂って駆け抜けていた」。[11]

 この「恐ろしい手術」「古い病院」には、さらに2つの記憶が結びついている──ひとつは、彼女がまだ小さいとき、ふたりの従兄弟が幼くして盲腸炎で亡くなったこと。もうひとつは、しばしば彼女が「トラウマ的な出来事」として語る、5歳のときにクロケットのボールのうえを歩こうとして転び、盲腸を破裂させたという事故である。この事故について、別のノートでは第三者視点でこのように書かれている。

「古風な感じの花々、Columbine、St John’s Wart、その他一度も名前を聞いたことがない人たち。バラの庭はクロケットの芝生に隣接していた。蚊が、ストライプで何度も洗濯してある私のボーダーのTシャツに寄ってくる。明るい巻き髪の、小さくて痩せた女の子が、クロケットのボールの上をバランスを取りながら歩こうとしていた。彼女はクロケットのスティックの上で転び、お腹を強く打った。お手伝いさんの奥さんがそれを見て、彼女を助けるために階段を降りてくる。88段の階段はツタと、いつもは届かないところにあるスウィート・ウィリアムを通り過ぎようかというところだった」。[12]

 ある場所──古い病院で自らの亡霊と遭遇したブラウンは、そのなかに自身の幼少期から従兄弟、瑞々しい庭や階段のなかに「小さな女の子」としての「私」を見出し、体のなかに折り畳まれた記憶の数々の到来を経験する。

 そして様々な出来事、その記憶とともに紡がれた〈Accumulation〉は、1979年の《Accumulation with Talking plus Watermotor》に結実する。同作は複雑なその来歴にもかかわらず、一見してシンプルで構造的なものだ。語りの前半ではこれまでの〈Accumulation〉の公演のバリエーションが並べられ、そして「二つの物語を同時に語」ることへの宣言を挟んで、後半ではふたつの公演の様子(うちひとつは前述の母校でのレクチャー)が交互に話される。作品のなかに乱反射する記憶の数々は線的に組み直され、そのうえでふたつのストーリーが交差する。

  ジュリエット、夫、木の葉、…「この16時10分頃」は多数の要素をうちに含むが、「言語」はそれを規定できない。「どちらも優しくそよいでいた」というようなセンテンスで多数性をマークすることしかできない。世界には同時に複数のことが生じている。だが一つしか口を持たない私たちは、それらを順に示していくことしか出来ない。…発語順序に必然性はない。世界は同時多重である。言語はそこに線形的な先後関係をつけて表現するほかない。――平倉圭『ゴダール的方法』インスクリプト、2010

 私たちの体は、複数のことを同時に行うことができる(たとえば、電車の窓の外の風景に気を取られながら友達の話を聞き、左手でポケットのガムの包み紙を触りながら右足で意味なくリズムを刻む)。しかし話し言葉でその状態を記述するときには、すべてを等価に扱いつつ線的に語ることしかできない。ブラウンはこれを逆手に取り、リテラルにふたつのシンプルなストーリーを交互に話すことによって、その不可能性に言及する。ダンスの空間を飛び交う様々な時間の束は瞬時に凍結され、断片的な、いくつもの「こうありえたかもしれない」可能性としてのオブジェクトに変化する。ダンサーはこの空間においてなにが起こっているのかを観客と同時に知り、後から出来事の輪郭に触ることで次の動きを繰り出していく。こうした方法をブラウンは自らに課し、困難な振付を遂行する身体こそを、見るべきものとしてダンスの空間にあげた。それによって膨大な風景、出来事、そのほかの記憶の数々──を、たんに語るのとは別の方法で、観客と共有することを可能にしたのである。ここでもうひとつ興味深いのは、ブラウンがダンスの空間において、ダンス以外にまったく別のものを見ていることである。ブラウンは先に引用した部分に続いて、次のように語っている。

「頭をまわせば舞台の外の光景が一瞬与えられ、それからジェスチャーはまた前方の観客に向けられる。そしてそこには、ローマからボストン、そして1972年から今日にいたる舞台下手の光景の記憶がひとそろいあるのだ。時には自分に見えるものや他の光景のうちで自分が覚えているものに触れるし、あるいは勢いをすべて中断しながら、結局は次の周期でそれを抑えられないことに気付かされることもある。つねにバック・ステージには私を淡々としたまなざしで捉えている2、3人のカンパニー・メンバーがいて、今回こそ私が、われを忘れてしまうのか、新しい針路をとるのか、もしくは自分でもよく恐れたように、単に破綻してしまうのかを見届けようと待ち構えている。私は彼らの存在を自分の作品の断固とした支持であるとともに、頭脳と身体のより明確な文節の要求とみなしている。言い換えると、私は二種類の観客を相手にしている、一方は私の前に居て無邪気であり、他方は私の肩越しに控えていて、先週行った魅力的なくだりに騙されることはない」。[13]

 ミュージシャンを追ったドキュメンタリーのようでもあり、それよりいくぶん生々しいこの描写は、動きの来歴や上演の記憶を含み込む同作を軸としたダンス―記憶―歴史(人生)という広がりにさらなる外側を付け加える。ここでは、作品のなかで話されることやダンスの空間そのもの、観客との関係だけでなく、完全に隠されたものとしての舞台裏もダンサーにリアルタイムで影響を与えることが示される。コレオグラファーとしてのブラウンは、その過程を共有したカンパニー・メンバーたちを監視役のようなものとしてとらえ、自らの動き――頭脳と身体の文節を点検させる。その見えざる圧力はダンサーとしてのブラウンに強い緊張を与え、ダンスそれ自体からもうひとつ上の段階において、彼女はまたしてもコレオグラファーとダンサーのあいだで引き裂かれることになる。そしてこれも、自らの張り詰めた表面をもってダンスのブラックボックス化した裏側を暴き、動きの理由を開示するというブラウンの態度の表れととらえることができるかもしれない。

 

[1] Yvonne Rainer “A quasi survey of some ‘minimalist’ tendencies in the quantitatively minimal dance activity midst the plethora, or an analysis of trio A” , 1968
[2] 岡崎乾二郎は、E・H・ゴンブリッチが『装飾芸術論』で時間や空間という概念の「部分的な知覚(瞬間的あるいは、全体から切り離された細部)から、いまだ訪れていない全体をどうやってしるのかという問題」を扱っていることを指摘している(「トリシャブラウン―思考というモーション」『トリシャ・ブラウン―思考というモーション』、ときの忘れもの、2006、19頁)。
[3] 武藤大祐は、レイナーが「平坦なひと続きの動きによって『現実的』な見かけを作り出し、同時に、そのような見かけを作るために必要とされる身体的労力を故意に露出してみせるという入り組んだ戦術を仕掛け」ていることを指摘する(「イヴォンヌ・レイナー『トリオA』における反スペクタクル―見ることの困難をめぐって」『群馬県立女子大学紀要 第30号』、2009)。
[4] 音声の引用はYouTubeで一部公開されている 手塚夏子《プライベート トレース2009》の記録映像による。https://youtu.be/MU7ByEpZUGE
[5] トリシャ・ブラウン「アキュムレーション・ウィズ・トーキング・プラス・ウォーターモーター、一九七九年」中井悠訳『トリシャ・ブラウン―思考というモーション』ときの忘れもの、2006、84頁
[6] ブラウン、前掲書
[7] ブラウンへのインタビュー「ダンシングとドローイング」『トリシャ・ブラウン:ダンス、自由なる正確さ』マルセイユ美術館、1998(岡崎乾二郎「トリシャブラウン―思考というモーション」『トリシャ・ブラウン―思考というモーション』ときの忘れもの、2006、34頁より)
[8] スティーヴ・パクストン「ブラウンの新たな身体」木下哲夫訳『トリシャ・ブラウン―思考というモーション』ときの忘れもの、2006、11頁
[9] ブラウンへのインタビュー「ダンシングとドローイング」『トリシャ・ブラウン:ダンス、自由なる正確さ』マルセイユ美術館、1998(岡崎乾二郎「トリシャブラウン―思考というモーション」『トリシャ・ブラウン―思考というモーション』ときの忘れもの、2006、23頁より)
[10] “A Conversation about Glacial Decoy”, “OCTOBER”, The MIT Press, 1979, p34(引用者訳)
[11] Susan Rosenberg “Trisha Brown: Choreography As Visual Art”, Wesleyan Univ Pr, 2016, p209(引用者訳)
[12] Ibid.
[13] トリシャ・ブラウン「アキュムレーション・ウィズ・トーキング・プラス・ウォーターモーター、一九七九年」中井悠訳『トリシャ・ブラウン―思考というモーション』ときの忘れもの、2006、84頁

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