ものたちのユートピア──宮沢賢治『銀河鉄道の夜』と松澤宥のフリー・コミューン(2022)

 

 通りかかった町中のショーウインドウや、祖父母が世界中で集めた雑貨が並ぶ棚の上。小さなものたちが作り出す風景にふと心を奪われてしまうときがある。本稿では、このようなオブジェクトの関係を描いた宮澤賢治(1896-1933)、そして「オブジェを消せ」という啓示を受けたことで知られる芸術家・松澤宥(1922-2006)の作品を比較し、「ものたちのユートピア」を考察する。

 生涯のほとんどを岩手県で過ごし、東北地方から天上にまで及ぶ理想郷「イーハトーヴォ」を標榜した賢治は、現代においてある意味で神格化された存在である。過去の研究によれば、イーハトーヴォは「頭の中でイメージしたことがそのままリアルな世界として機能する」[1]世界でありながら冷害や飢饉といった困難も多く、いわば「逆説的なユートピア」[2]と見られている。賢治の詩や小説が現実/想像世界を架橋するものだとする一般的な解釈に比べ、グレゴリー・ガリーは画期的な視点を導入する。ガリーは賢治をリアリストとして位置付けたうえで、代表的な小説『銀河鉄道の夜』が「地図の論理がその比喩的複雑さのすべてにおいて増殖することを許」[3]し、読者にいかに「位置を図示するか」を教えていると論じる。同作には、宇宙の模型から活版印刷の活字まで大小様々なオブジェクトが登場する。賢治はこうしたオブジェクトを用いた「三角測量」によって、具体と抽象のはざまで自らを定位する方法を描いたのである。ここには単なる理想郷に留まらない、ものたちのユートピアがあると言えるだろう。

 『銀河鉄道の夜』の序盤、主人公のジョバンニは町の時計店の窓に惹きつけられる。

 ジョバンニは、せわしくいろいろのことを考えながら、さまざまの灯や木の枝で、すっかりきれいに飾られた街を通って行きました。時計屋の店には明るくネオン燈がついて、一秒ごとに石でこさえたふくろうの赤い眼が、くるっくるっとうごいたり、いろいろな宝石が海のような色をした厚い硝子の盤に載って星のようにゆっくり循ったり、また向う側から、銅の人馬がゆっくりこっちへまわって来たりするのでした。そのまん中に円い黒い星座早見が青いアスパラガスの葉で飾ってありました。
 ジョバンニはわれを忘れて、その星座の図に見入りました。[4]

 ガリーはここに「超現実的な圧縮」を見る。「『青いアスパラガスの葉』の地上的な身近さが、それが『飾って』いる回転する星座の図に表された宇宙の遠い不可思議な作用と出会う」[5]。そしてここでは「近くのものと遠くのもの、有機的なものと非有機的なもの、人間と人間以外のものが一つの次元に統一され」[6]ている。どういうことか。例えば「星座早見」は「円い黒い」質感を持ち、アスパラガスの葉と物理的に関係すると同時に、宇宙の星座同士の関係を指示するものでもある。ジョバンニが文字通りそれに「見入る」──見て、その具体的/抽象的な関係性のなかに入り込む──ことによって、オブジェクトは宇宙を拡大するための道具となる。つまりものたちのユートピアは、美的な質だけでなく、対極にあるものを「一つの次元に統一」する機能を持っている。

 賢治がこうしたユートピアを描いた背景には、思うように成功しなかった農業活動があると考えられる。賢治が生涯をかけて農業に時間を費やしたことはよく知られているが、並松信久によれば、賢治は「知識人である限り、農民と同様の生活をしたとしても、決して農民にはなれなかった」[7]。技術の向上によって、また芸術によって農民生活が豊かになるという理想を賢治は描いていたが、それは周囲の農民には受け入れられなかった。賢治は農民たちの心のうちに潜む「まっくらな巨きなもの」としての悪意にさらされ、大きな挫折を覚えたという。『銀河鉄道の夜』は、賢治が覚えた共同体からの疎外を描いた物語としても読むことができる。並松が言うように、それは「夜の祭りの軸である銀河それ自体のなかに自分を見出す」[8]物語であり、そのためにはいかなる悪意も持たない(ときには自己犠牲を行う)オブジェクトたちの関係によって、地図を描くという行為が必要だったのだ。

 「宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い/芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した」。賢治による『農民芸術概論綱要』(1926)の一文は、それから約45年後、松澤宥による「人類よ消滅しよう 行こう行こう(ルビ:ギャティギャティ)反文明委員会」という文言にも通じているようだ。松澤は長野県下諏訪町に生まれ、同地を拠点に作品を発信し続けたアーティストである。松澤は1964年6月1日に「オブジェを消せ」という声を聞いて以来、一切の造形をやめ、文章による表現や「消滅」「終焉」といったキーワードを掲げるパフォーマンスなどを続けた。賢治と松澤に共通するのは、進化を続ける科学(文明)と芸術に対する諦念、そしてそこからいかに芸術を続けていくのかという問いである。

 「消滅」を唱えた松澤は、ものたちのユートピアと対極にあるように思えるかもしれない。しかし松澤は「プサイ(ψ)の部屋」と名付けたアトリエで、自身が消滅すべきとした数々のオブジェクトや過去の自作に囲まれてその思考を醸成していた。能勢陽子は松澤の芸術を、「近代文明を呪いながら”消滅”を唱えて、それを推奨さえしつつ、 芸術表現の終わりを宣告するのではなく、芸術や人間の可能性をより広大無辺な広がりの中に遍在、拡散させようとするもの」[9]だと論じる。松澤は量子力学など最新の科学にも詳しく、伝達手段としてのテレパシーを真剣に考えてもいた[10]

 松澤は1971年、諏訪の地に「泉水入瞑想台」を完成させ、芸術家たちのフリー・コミューンで瞑想や儀式などの行為を行った。無機的な印象を受ける他の松澤の活動とは対照的なこの「泉水入瞑想台」について、嶋田美子は「緩やかに繋がった個人や小さなグループの集合体であり、新たな視点と力を相互伝達と集団的な経験によって獲得しようとした」[11]と述べている。牧歌的なユートピアに見えて、このコミューンは松澤にとって「個をあらゆる全体の中に”消滅”させる」実践であった。独立した個による特権的な芸術家像を排することで、人と人、ひいては人と自然の「虚空間のネットワーク」のなかに自分自身を定位すること。ものなきものたちのユートピアとでも言うべき松澤の実践は、賢治の思考とも多くを共有している。

 岩手と長野の地で生きた二人の芸術家は、身を切るような寒さのなかでものたちのユートピアを思考していた。共通するのは、そのユートピアが夢想されるものではなく、実際に利用可能なものだということだ。賢治は小さなオブジェクトたちに銀河を拡大する機能を見出し、松澤はコミューンによってオブジェとしての自らを消滅/発見する実践を行った。彼らは、すぐ身近にあるものたちのユートピアに人間が失いつつある想像力を仮託し、その豊かさを静かに示そうとしていたのではないだろうか。

※画像は、長野県立美術館「生誕100年 松澤宥」(2022年2月2日~3月21日)の展示風景です。雪のちらつく下諏訪への旅によせて。

 

[1] 人見千佐子「イーハトーヴとユートピア」『法政大学大学院紀要 第70巻』2013年、p. 100
[2] ibid.
[3] グレゴリー・ガリー『宮澤賢治とディープエコロジー 見えないもののリアリズム』平凡社、2014年、p. 43
[4] 宮澤賢治『銀河鉄道の夜』(1934)『青空文庫』を参照
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/456_15050.html (2022年2月14日最終閲覧)
[5] ガリー、前掲書、p. 74
[6] ガリー、前掲書、p. 77
[7] 並松信久「宮沢賢治の科学と農村活動」『京都産業大学論集 人文科学系列 第52号』2019年、p. 95
[8] 並松、前掲書、p.94
[9] 能勢陽子「松澤宥の『概念芸術』における”消滅”」『豊田市美術館紀要No. 7』2014年、p. 24
[10]『ニルヴァーナからカタストロフィーへ―松澤宥と虚空間のコミューン』展カタログ、オオタファインアーツ、2017、p. 45
[11] 嶋田美子「ニルヴァーナからカタストロフィーへ―松澤宥と虚空間のコミューン」前掲書、p. 29

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